
著者について
齋藤代彦は、介護福祉職としての実践経験と、介護福祉士を養成する専門学校・短期大学・大学における24年間の教員経験を基盤に、関係情報存在論を中核とする「齋藤哲学」を体系化し、関係情報存在論としての介護福祉哲学を公開・研究している独立研究者です。
1958年(昭和33年)生まれ。
社会福祉士・介護福祉士。
満66歳となった年度末に教員生活から引退しました。
A Philosophical and Practical Foundational Proposition System Based on Relational Informational Ontology
本ページでいう「公理系」とは、数学的・形式論理的な意味での厳密な無証明命題の体系ではない。
ここでいう公理とは、齋藤哲学を構成するための哲学的・実践的な基礎命題であり、関係情報存在論を中核として、存在論・宇宙論・哲学的人類学・倫理論・介護福祉実践を相互に結びつけるための根本的視座を示すものである。
したがって、本公理系は、形式的な演繹体系というよりも、介護福祉実践において出会う「ご本人」の尊厳、生き方の自由度、肯定的理解、関係支援を存在論的に基礎づけるための哲学的枠組みである。
齋藤哲学は、存在を孤立した実体としてではなく、関係の中で意味と情報を創発する存在として捉える。この視座に基づき、人間・生命・意識・ケア・善悪・希望・救い・真理を、一つの関係的連続体の中で理解しようとする。
本公理系の目的は、齋藤哲学の中核にある関係情報存在論を、介護福祉哲学として展開するための基礎命題として整理することである。
介護福祉実践において、ご本人は単なる支援対象ではない。ご本人は、身体・記憶・生活史・他者・環境・制度・地域社会との関係の中で、唯一無二に意味を生成し続ける関係情報存在である。
そのため、介護福祉実践は、単なる生活支援や健康管理にとどまるものではない。ご本人にすでに有る尊厳を損なうことなく、ご本人に固有の存在の履歴を尊重し、未来に向けて関係情報の自由度を開く、存在論的・倫理的実践として理解される。
本公理系は、そのような介護福祉実践の存在論的・倫理的根拠を示すために置かれる。
ここでいう関係とは、単なる外面的な接触や相互作用ではない。存在が存在として成立し、意味をもち、変化し、創発していくための根本的な成立条件を指す。
存在は、孤立した実体として先に成立し、その後に関係を結ぶのではない。存在は、常にすでに関係の中で成立している。
ここでいう情報とは、通信工学的な情報量やデータに限定されるものではない。
情報とは、関係の中で意味・秩序・個性・履歴・可能性を生成する存在論的契機を指す。したがって、情報は単なる記号や数値ではなく、存在がどのように関係し、どのように意味を帯び、どのように変容していくかを示す根本的な働きである。
関係情報場とは、存在相互の関係によって意味・秩序・履歴・可能性が生成され続ける関係的な成立領域をいう。
それは固定した容器のような「場」ではなく、存在相互の応答、相互作用、変化、創発によって不断に形成される動的な関係構造である。
関係情報存在とは、孤立した実体ではなく、関係の中で意味と情報を生成し続ける存在である。
人間は、身体・意識・記憶・生活史・他者・環境・制度・自然・宇宙との関係の中で、唯一無二の存在として個体化している。この意味で、人間は関係情報存在である。
創発とは、関係の中から、部分へ単純に還元できない新たな意味・秩序・性質・可能性が生じることである。
創発は、あらかじめ定められた目的へ必然的に進むことを意味しない。むしろ、存在が関係の中で未完のまま開かれ、変容し、新たな意味や可能性が生じ得ることを意味する。
個体化とは、全体的な関係情報の連関が、ある存在において固有の履歴と形をもって現れることである。
個は孤立した単位ではない。個とは、関係の中で唯一無二に成立する関係情報の結節である。
尊厳とは、制度・能力・役割・有用性・社会的評価に先立って、人間が存在していることそれ自体において有する不可侵の存在価値である。
尊厳は、他者から付与されるものではない。支援とは、ご本人にすでに有る尊厳を損なうことなく、その尊厳が関係の中で具体的に保たれるように支える営みである。
生き方の自由度とは、単に選択肢が多いことではない。
それは、ご本人が関係の中で尊厳を保ち、自己・他者・世界への肯定的理解を深めながら、より善く意味のある生を能動的に創発していくことができる可能性の度合いである。
ケアとは、他者を一方的に援助・管理することではない。
ケアとは、ご本人の尊厳と人格的個体化の自由度を支え、関係の中で意味と可能性が開かれるようにかかわる倫理的実践である。
介護福祉とは、生活支援や健康管理を含みつつも、それらに尽きるものではない。
介護福祉とは、権利主体であるご本人を、単に支援や管理の対象として扱うのではなく、ご本人の尊厳・生活史・願い・関係・沈黙・好み・苦しみ・希望を肯定的に理解し、よりよい生き方の自由度を支える専門的実践である。
ここでいう罪悪とは、特定宗教における罪の概念に限定されるものではない。
罪悪とは、関係情報の歪み・閉塞・断絶によって、存在の尊厳、人格的個体化、生き方の自由度、相互生成の可能性が損なわれる出来事を指す。
ただし、罪悪を関係の歪みとして理解することは、加害や責任を曖昧にすることではない。むしろ、なぜその歪みが生じ、どのように尊厳が損なわれ、どのように責任を明らかにしつつ関係の回復へ向かい得るのかを問うための視座である。
ここでいう霊性とは、特定宗教の教義や信仰の有無を前提とするものではない。
霊性とは、人間が自己を超えた意味、他者、自然、世界、宇宙、死者、未来などとの関係へ開かれているという存在論的契機を指す。
ここでいう救済とは、特定宗教に限定された救済ではない。
救済とは、苦・喪失・断絶・閉塞の中にあっても、関係の回復、意味の再創発、希望への開かれが可能となることを指す。
本公理系は、自然科学における実証命題ではなく、形式論理学における完全な演繹体系でもない。
そのため、本公理系の妥当性は、数学的な証明可能性や経験科学的な検証可能性のみによって判断されるものではない。
本公理系は、主として次の観点から検討される。
第一に、概念的一貫性である。各公理が相互に矛盾せず、齋藤哲学全体の世界理解を支えているかが問われる。
第二に、実践的有効性である。介護福祉実践において、ご本人の尊厳、生き方の自由度、肯定的理解、関係支援を理解するために有効であるかが問われる。
第三に、倫理的妥当性である。ご本人を支援や管理の客体へ還元せず、権利主体として尊重する視座を支えているかが問われる。
第四に、先行思想との対話可能性である。プロセス哲学、関係存在論、ケア倫理、現象学、哲学的人類学などとの関係の中で、どのように接続し、どこに独自性を有するかが問われる。
第五に、批判可能性・修正可能性である。本公理系は閉じられた完成体系ではなく、実践事例、倫理的批判、先行研究との対話を通して、今後も修正され、深化し得る開かれた基礎命題体系である。
本公理系は、次の五つの群と、それらを統合する最高公理から成る。
第一群は、存在の成立に関する公理である。
第二群は、宇宙・生命・意識の連関に関する公理である。
第三群は、人間と人格に関する公理である。
第四群は、倫理と介護福祉実践に関する公理である。
第五群は、霊性・愛・畏敬に関する公理である。
最後に、これらを統合する最高公理を置く。
あらゆる存在は、関係によって成立する。
関係は情報を生み、情報は新たな意味・秩序・個性・可能性を創発する。
個とは、全体的な関係情報の連関が、固有の履歴と形をもって個体化した存在である。
存在は、常に未完であり、他の存在・未来・可能性へ開かれている。
宇宙は、多層的な関係情報場として成立している。
宇宙の初期条件とその後の関係的展開は、生命や人間的主体の出現をあらかじめ必然化するものではないが、それらが出現し得る条件を含み得るものとして理解される。
生命・意識・人格は、宇宙における関係的条件のもとで生じてきた創発的展開である。
人間の意識において、宇宙の一部が、自己を含む宇宙全体を理解の対象とする。
人間とは、宇宙的情報連関の人格的個体化であり、身体・意識・霊性・関係の統合である。
人間存在の唯一無二性は、能力・有用性・社会的評価に先立つ不可侵の存在価値を有する。
罪悪とは、関係情報の歪み・閉塞・断絶であり、人格的個体化の自由と尊厳の承認・実現を阻害する。
人生とは、関係の中で意味が創発し続ける生成過程である。
ケアとは、ご本人の人格的個体化を支え、生き方の自由度を広げる関係実践である。
介護福祉とは、存在論に基礎づけられた尊厳支援の倫理実践である。
ケアとは、支える側と支えられる側との相互生成である。
人間は、自己を超えた意味への開放性を有する。
愛は、存在相互を開き、創発を促す根源的関係作用である。
畏敬は、存在の唯一無二性・不可把握性・深みに対する、感謝を伴う根源的応答である。
宇宙・生命・意識・人間・ケアは、存在様態を異にしながら、関係情報の創発という原理において一つの連続性を成す。
この統合公理は、齋藤哲学が、存在論・宇宙論・哲学的人類学・倫理論・介護福祉実践を分断せず、一つの関係情報存在論の中で理解しようとすることを示す。
ただし、この連続性は、宇宙についての存在論的事実から倫理的規範やケアが必然的・自動的に演繹されることを意味しない。存在論から倫理・実践への移行には、次節に示す規範的な橋渡し原理が介在する。
存在論的公理から倫理的・実践的命題を直接に導くならば、存在についての記述から「何をなすべきか」という規範を自動的に導く論理的飛躍が生じるおそれがある。
そのため、本公理系では、存在論と介護福祉実践を接続するため、尊厳・自由・相互性という規範的前提を明示する次の橋渡し原理を置く。
橋渡し原理の位置づけ
ここでいう「橋渡し原理」は、存在についての記述から、「したがって人はこうすべきである」という倫理的規範を論理必然的・自動的に演繹するための推論規則ではない。
存在が関係の中で成立し、固有の履歴を担いながら未来へ開かれ、他の存在との相互関係の中で意味を生成するという存在論的理解を、介護福祉実践において何を尊重し、何を支え、どのように応答するべきかという規範的判断へ媒介するための哲学的原理である。
そのため本公理系では、存在論から倫理への飛躍を避けるために、「尊厳保持原理」「自由度支援原理」「相互生成原理」を橋渡し原理として明示的に置く。これらを介することによって、存在論的理解はそのまま倫理的・実践的命題へ変換されるのではなく、「ご本人」の尊厳と生き方の自由度をどのように支えるかという介護福祉実践上の問いへと媒介される。
人間の唯一無二性を不可侵の価値として尊重するという規範的立場に立つならば、その尊厳を損なう関係の歪み・閉塞・断絶を回避・是正し、尊厳が具体的に保たれる関係を形成することが要請される。
人格的個体化と生き方の自由度を尊重するという規範的立場に立つならば、その自由度を不当に狭めず、可能な範囲で広げる実践が尊厳支援として要請される。
人間が関係によって成立する存在であることを踏まえるならば、支援は一方向的作用としてではなく、支える側と支えられる側が関係の中で相互に理解し、学び、変容し得る実践として理解される。
苦しみ、喪失、拒否、怒り、沈黙、混乱、孤立などは、それ自体によってご本人の存在価値を損なうものではない。
それらは、ご本人の関係情報世界において、どこに歪み・閉塞・断絶が生じているのかを読み解くための手がかりである。
介護福祉実践においては、生命、安全、自由度、尊厳、本意、身体、記憶、生活史、家族、支援者、環境、社会制度、未来可能性のいずれか一つだけを絶対化してはならない。
それらを多層的・全方位的に捉え直し、ご本人にとってよりよい生き方の操舵が可能となるよう、関係情報の方向づけを調整する必要がある。
閉塞した関係情報は、肯定的理解、ケア、愛、畏敬、希望、感謝、共生を通して、意味へと再編成され得る。
したがって、救済とは、苦しみや喪失から単に逃れることではなく、それらが新たな意味、関係、希望へと開かれていく多層的な創発過程である。
これらの橋渡し原理は、存在についての記述的命題から倫理的規範を自動的に演繹するものではない。むしろ、齋藤哲学が存在論と介護福祉実践を接続する際に採用する規範的前提を明示するために置かれる。
本公理系から、齋藤哲学における主要な哲学的・実践的方向が示される。
第一に、個人の尊厳は、能力・有用性・社会的評価や制度による承認以前に、存在論的根拠をもつ。
第二に、人間存在の関係性と脆弱性を踏まえるならば、ケアは単なる技術や善意ではなく、人間の生を支える存在論的・倫理的実践として位置づけられる。
第三に、愛は単なる感情や所有ではなく、存在相互を開き、他者の自由と可能性を支え、創発を促す関係作用として理解される。
第四に、罪悪は、関係情報の歪み・閉塞・断絶として理解される。他方、苦は、身体的疼痛、病い、喪失、有限性、環境、関係の断絶など多様な契機から生じ得る。齋藤哲学は、苦そのものを美化するのではなく、その苦が関係世界の中でどのように経験され、意味づけられ、どのような応答が可能であるのかを問う。
第五に、介護福祉実践は、支援者がご本人へ一方向的に働きかける技術ではなく、ご本人と支援者が共に関係情報場を変容させていく相互生成的実践として理解される。
第六に、死と霊性は、人間を閉じた個として完結させるものとしてではなく、自己を超えた意味、記憶、継承、他者、未来、ケアへの開放性を問う契機として理解される。
これらの命題は、数学的な意味で演繹的に証明されるものではない。むしろ、本公理系に基づき、存在論・倫理論・介護福祉実践を連続的に結びつける哲学的導出として示される。
本公理系は、介護福祉実践に対して次の含意をもつ。
ご本人は、支援や管理の客体ではない。
ご本人は、関係の中で意味を生成し続ける権利主体である。
支援とは、ご本人を外側から一方向的に動かすことではない。
支援とは、ご本人の現在の均衡を尊重しながら、ご本人の願い・生活史・記憶・身体・沈黙・好み・苦しみ・希望を肯定的に理解し、よりご本人らしい生き方の自由度を共に開いていくことである。
介護福祉実践とは、ご本人にすでに有る尊厳を損なうことなく、ご本人に固有の存在の履歴を尊重し、未来に向けて関係情報の自由度を開く、存在論的・倫理的実践である。
本公理系は、完成された閉鎖体系ではない。
今後さらに検討すべき課題として、第一に、各用語の定義をより精緻化する必要がある。とりわけ、情報、関係情報場、創発、霊性、救済、罪悪、愛、畏敬などの概念については、先行思想や関連諸科学との対話を通して、さらに明確化していく必要がある。
第二に、既存思想との比較が必要である。齋藤哲学は、プロセス哲学、関係存在論、ケア倫理、現象学、哲学的人類学などと響き合うが、それらと同一ではない。齋藤哲学の独自性は、介護福祉実践の現場から、ご本人の尊厳、生き方の自由度、肯定的理解、関係支援を存在論的に基礎づけようとする点にある。
第三に、実践事例との往還が必要である。公理系は抽象的命題の集合にとどまるべきではなく、ケア計画、介護記録、アセスメント、ケアカンファレンス、看取り、家族支援、地域支援などの具体的場面において検討されなければならない。
第四に、批判に開かれている必要がある。齋藤哲学は、固定された教義ではなく、関係の中で生成し、変容し、深化し続ける哲学である。したがって、本公理系もまた、実践、対話、批評、研究、検証を通して、今後も修正され続ける開かれた体系である。
齋藤哲学の公理系とは、数学的公理系ではなく、関係情報存在論に基づく哲学的・実践的基礎命題体系である。
それは、存在を孤立した実体としてではなく、関係の中で意味と情報を創発する存在として理解し、その視座から、人間の尊厳、ケア、愛、罪悪、霊性、救済、介護福祉実践を位置づける試みである。
本公理系によって、介護福祉実践は、単なる援助技術ではなく、ご本人にすでに有る尊厳を損なうことなく、ご本人に固有の存在の履歴を尊重し、未来に向けて関係情報の自由度を開く、存在論的・倫理的実践として基礎づけられる。
その意味で、本公理系は、齋藤哲学における存在論・宇宙論・哲学的人類学・倫理論・介護福祉実践を結びつける、開かれた哲学的基盤である。
あらゆる存在は、関係によって成立する。
存在は、孤立した実体として先に成立し、その後に関係を結ぶのではない。存在は、他の存在、環境、時間、歴史、条件との関係の中で成立する。
関係もまた、孤立した対象として観察されるのではなく、応答・相互作用・理解・ケア実践などの中で、その意味と構造を現す。
関係とは、存在相互が応答し、影響し合い、意味・秩序・変化を生じさせる根源的な結びつきである。
関係は情報を生み、情報は新たな意味・秩序・個性・可能性を創発する。
存在は静的ではなく、生成的である。
ここでいう情報とは、単なる記号的・通信工学的情報ではなく、関係の中で意味・秩序・個性・履歴・可能性を生成する存在論的情報である。
創発によって生じた意味、個性、経験、記憶は、存在の履歴として関係構造に刻まれる。したがって、創発による変化は、単純に以前と同一の状態へ戻るという意味での完全な可逆性を前提としない。
補足:ここでいう「情報」について
本公理系における「情報」とは、通信工学的なデータや記号の集合そのものを意味するものではない。存在相互の関係の中で、ある差異・状態・履歴が他の存在のあり方に差異をもたらし、意味・秩序・個体性・可能性の形成に参与する関係的契機を、存在論的情報として捉える。
また、「関係情報場」とは、自然科学によって直接測定される物理的な「場」の存在を主張するものではなく、複数の存在が相互に関係し、その関係の中で意味・秩序・可能性が生成される構造を哲学的・存在論的に表現するための概念である。
※各概念の詳細については、 基本概念辞典|齋藤哲学 を参照。
個とは、全体的な関係情報の連関が、固有の履歴と形をもって個体化した存在である。
唯一無二性は、単なる偶然的な付加ではなく、それぞれの存在がたどってきた関係情報の固有の履歴から生じる存在論的特性である。
個は孤立した単位ではない。個とは、全体的な関係の中で、固有の履歴をもち、他のいかなる存在とも完全には置き換えることのできない仕方で成立する関係情報の結節である。
存在は、常に未完であり、他の存在・未来・可能性へ開かれている。
存在の未完性は、単なる欠如ではない。それは、新たな関係、新たな理解、新たな意味が生じ得る条件でもある。
したがって、存在するということは、固定された完成状態に閉じることではなく、関係の中で変化し、新たな可能性へ開かれ続けることである。
補足:履歴性と開放性について
公理3が示す個体化とは、存在が、それまでに形成されてきた固有の関係と履歴を担うことを意味する。しかし、その履歴によって未来のあり方まで一義的に決定されることを意味するものではない。
存在は、それまでの履歴を消去することなく保持しながらも、新たな他者・環境・出来事との関係を通して、新たな意味と可能性を創発し得る。したがって、個体化と開放性とは対立するものではなく、「固有の履歴を担いながら、なお未来へ開かれている」という一つの存在構造の異なる側面である。
宇宙論的公理についての注記
以下に示す宇宙論的公理は、現代物理学や自然科学によって実証された宇宙の物理構造を記述する命題として提示するものではない。関係情報存在論を人間や介護福祉実践の範囲だけに限定せず、生命・自然・宇宙を含む広い存在世界の中で考察するための哲学的・存在論的モデルとして提示するものである。
したがって、ここで用いられる「関係情報場」その他の宇宙論的表現は、自然科学上の概念との類似性や示唆をもち得る場合があっても、それらの物理学的理論をそのまま援用したり、科学的に実証された事実として主張したりするものではない。
また、宇宙についての存在論的理解から、介護福祉実践における倫理的規範が自動的に導出されるものでもない。存在論的理解と倫理・実践との間を媒介する役割は、後述する「橋渡し原理」が担う。
宇宙は、多層的な関係情報場として成立している。
宇宙は、互いに無関係な物の単なる集合としてではなく、多様な存在と出来事が相互に条件づけ合う多層的な連関構造として理解される。
ここでいう関係情報場は、固定された物理的実体を意味するものではない。宇宙における存在・出来事・相互作用・履歴を、関係的連関として哲学的に理解するための概念である。
宇宙の初期条件とその後の関係的展開は、生命や人間的主体の出現をあらかじめ必然化するものではないが、それらが出現し得る条件を含んでいた。
この公理は、宇宙が生命や人間の出現を目的として進んできたとする目的論を意味しない。
生命や人間的主体の出現は、あらかじめ保証された必然的結果としてではなく、多様な条件、偶然性、環境、相互作用、歴史的過程のもとで実際に生じた出来事として理解される。
したがって、この公理がいう「可能性」とは、未来の結果が初めから完成した形で潜在していたという意味ではなく、その出現を排除しない条件的開放性を意味する。
生命・意識・人格は、宇宙における関係的条件のもとで生じてきた創発的展開である。
生命・意識・人格は、単なる偶然の産物としてのみ理解されるものでも、宇宙があらかじめ目標としていた到達点として理解されるものでもない。
生命進化とは、偶然性・環境・相互作用などの諸条件のもとで、生命の形態や機能が歴史的に変化し、新たな関係構造が生じてきた過程である。
人間もまた、偶然性・相互作用・歴史的過程を含みながら、関係情報存在の可能性が固有の仕方で現実化した存在として理解される。
これは、人間の出現があらかじめ目的として定められていたことを意味しない。
人間の意識において、宇宙の一部が、自己を含む宇宙全体を理解の対象とする。
人間は宇宙の外部に立つ観察者ではない。人間の身体も意識も、宇宙の歴史と条件の中で成立した存在である。
その人間が宇宙を観察し、理解し、自らの存在の意味を問うとき、宇宙の一部である存在が、自らを含む全体を理解の対象としていることになる。
したがって、「宇宙理解」は同時に自己理解へ開かれ、自己理解もまた宇宙理解へ開かれる。
人間とは、宇宙的情報連関の人格的個体化であり、身体・意識・霊性・関係の統合である。
人間は、孤立した精神でも、身体だけから成る存在でもない。
人間は、身体・意識・記憶・生活史・他者との関係・自然や社会との関係、さらに自己を超えた意味への開放性を含む統合的な関係情報存在である。
人格とは、この関係情報の連関が、一人ひとりに固有の履歴と意味をもって個体化した存在様態である。
人間存在の唯一無二性は、能力・有用性・社会的評価に先立つ不可侵の存在価値を有する。
尊厳は、知的能力、身体能力、生産性、役割、有用性、社会的承認によって後から与えられるものではない。
尊厳とは、人間が唯一無二の関係情報存在として存在していることそのものに根ざす存在論的価値である。
したがって、能力が低下しても、意思を十分に表明できなくても、人間としての尊厳が失われることはない。
罪悪とは、関係情報の歪み・閉塞・断絶であり、人格的個体化の自由と尊厳の承認・実現を阻害する。
罪悪は、単なる個人的感情や道徳的失敗としてのみ捉えられるものではない。
他者の唯一無二性を否定すること、他者を支配・操作・手段化すること、関係を閉ざし、尊厳や自由を奪うことは、関係情報の歪み・閉塞・断絶として理解される。
ただし、この理解は、加害者の責任や行為の重大性を相対化するものではない。
罪悪への応答は、責任を明らかにし、必要な制止や是正を行いつつ、可能であるならば関係の回復と再創発へ向かうことを含む。
人生とは、関係の中で意味が創発し続ける生成過程である。
人生は、あらかじめ完成した意味を実現するだけの過程ではない。
出会い、別れ、喜び、苦しみ、失敗、希望、ケア、記憶などとの関係の中で、人は過去を新たに意味づけ、現在を生き、未来へ開かれていく。
人生とは、唯一無二の履歴をもちながら、意味が関係の中で創発し続ける生成過程である。
ケアとは、ご本人の人格的個体化を支え、生き方の自由度を広げる関係実践である。
ケアは、単なる援助にとどまらない。
ここでいう生き方の自由度とは、単なる選択肢の数ではない。
それは、ご本人が関係の中で尊厳を保ち、自己・他者・世界への肯定的理解を深めながら、より善く意味のある生を能動的に創発していくことができる可能性の度合いである。
したがって、ケアとは、ご本人の代わりに人生を決定することではなく、ご本人が自らの存在の履歴を生きながら、新たな可能性へ開かれていくことを支える関係実践である。
介護福祉とは、存在論に基礎づけられた尊厳支援の倫理実践である。
本公理は、齋藤哲学における中心的な倫理公理である。
介護福祉は、単なる身体介助、生活援助、健康管理ではない。
ご本人を権利主体として理解し、すでに有る尊厳を損なうことなく、生活史、願い、好み、沈黙、苦しみ、希望を肯定的に理解し、生き方の自由度を支える実践である。
ケアとは、支える側と支えられる側との相互生成である。
ケアは、一方向的作用ではない。
支援を受ける側だけではなく、支援する側もまた、ご本人との関係を通して理解・態度・実践を変容させられる。
介護福祉実践とは、支援者が一方的にご本人へ働きかける技術ではなく、ご本人と支援者が共に関係情報場を変容させていく実践である。
人間は、自己を超えた意味への開放性を有する。
本公理系における霊性とは、特定の宗教信仰の有無によって限定されるものではない。
人間が自己を超えた意味、他者、自然、世界、宇宙、死者、未来などとの関係へ開かれているという存在論的契機をいう。
この意味において、霊性は、人間存在を理解するための一つの構成契機として位置づけられる。
愛は、存在相互を開き、創発を促す根源的関係作用である。
ここでいう愛とは、所有、支配、独占、あるいは感情的好意のみに限定されるものではない。
愛とは、他者の唯一無二性を受けとめ、その自由と可能性を閉ざすことなく、応答的に支える関係作用である。
この意味で、本公理系は、愛を、存在相互を開き創発を促す存在論的原理として位置づける。
畏敬は、存在の唯一無二性・不可把握性・深みに対する、感謝を伴う根源的応答である。
存在は、完全に所有し、理解し、操作し尽くすことのできる対象ではない。
畏敬とは、生命、人間、自然、宇宙、ならびにそれらを支える関係の深みに対して、自らの理解の限界を自覚しつつ、感謝と敬いをもって応答する姿勢である。
畏敬は、宇宙論と倫理を媒介し、存在を軽々しく支配・操作・還元しないための倫理的制止として働く。
また、罪悪への応答を断罪のみに終始させず、責任を明確にしつつ、可能な場合には関係の回復・再創発へと方向づける。
この意味で、畏敬は、愛とケアの基底を成す。
宇宙・生命・意識・人間・ケアは、存在様態を異にしながら、関係情報の創発という原理において一つの連続性を成す。
本公理は、齋藤哲学全体を統合する最高公理である。
宇宙、生命、意識、人間、ケアを同一のものとみなすのではない。それぞれは異なる存在様態をもつ。
しかし、それらを完全に分断された領域として扱うのでもなく、関係の中で情報・意味・秩序・可能性が創発するという視座から、一つの存在論的連続性の中で理解する。
ただし、この連続性から、倫理的規範や介護福祉実践が自動的・必然的に演繹されるわけではない。
存在論と倫理・実践との間には、尊厳保持、自由度支援、相互生成という規範的な橋渡し原理が必要である。
この点を明示することによって、齋藤哲学は、宇宙についての存在理解と、人間の尊厳、ケア、介護福祉実践とを、単純な論理的飛躍によってではなく、存在論的理解と明示された規範的前提との接続によって結びつける。
本公理系は、齋藤哲学における存在・関係・情報・創発を基礎に、尊厳・罪悪・ケア・霊性・愛・畏敬を、関係情報存在論の主要命題として体系的に位置づけたものである。
これらの公理は、数学的形式体系における無証明命題ではなく、介護福祉実践から、存在論・宇宙論・哲学的人類学・ケア倫理・極性の倫理(善悪論)・救済論・真理論へと展開していくための哲学的基盤である。
また、本公理系は、存在論から倫理的規範を自動的に導くものではない。尊厳保持、自由度支援、相互生成という橋渡し原理を介して、存在理解と倫理・介護福祉実践との接続を明示する。
この公理系は、証明体系を介して、さらに齋藤哲学の各領域へ展開され、未来論における「尊さは等しく、応答は異なる。」という命題へと開かれていく。
そして、本公理系そのものも完成された閉鎖体系ではない。
存在が未完であり、関係の中で新たな意味と可能性へ開かれているように、本公理系もまた、実践、研究、対話、批判を通して修正され、深化し続ける開かれた哲学的基盤である。
※齋藤哲学の証明体系、基本概念辞典、未来論は、下記のリンクをクリックしてご覧ください。

著者について
齋藤代彦は、介護福祉職としての実践経験と、介護福祉士を養成する専門学校・短期大学・大学における24年間の教員経験を基盤に、関係情報存在論を中核とする「齋藤哲学」を体系化し、関係情報存在論としての介護福祉哲学を公開・研究している独立研究者です。
1958年(昭和33年)生まれ。
社会福祉士・介護福祉士。
満66歳となった年度末に教員生活から引退しました。